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孫文記念館(移情閣)紹介

移情閣概要

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 1913年3月14日、日本を公式に訪問した孫文一行は呉錦堂の松海別荘を訪れ、歓迎昼食会に出席した。

   この記念館は、中国の革命家・政治家・思想家である孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun Yat-sen、1866~1925)を顕彰する日本で唯一の施設で、1984(昭和59)年11月に開設された。

    この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂(1855~1926)の別荘「松海別荘」を前身としている。1915(大正4)年春、その別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」が建てられ、外観が六角に見えるところから、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきた。

    孫文と「松海別荘」(移情閣)の関わりは、孫文が1913(大正2)年3月14日に来神した際、神戸の中国人や政・財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場になったときに始まる。その後、1983(昭和58)年11月、兵庫県が「移情閣」を管理していた神戸華僑総会から寄贈をうけ、改修を行った。

   1984(昭和59)年11月12日、孫文生誕の日に「孫中山記念館」として一般公開を開始、1993(平成5)年12月には「兵庫県指定重要文化財」に指定された。

    1994(平成6)年3月、明石海峡大橋の建設にともない、いったん解体され、元の位置から西南方向200メートルの現在地に移転、復原工事が進められ、2000(平成12)年4月に完成した。

 2001(平成13)年11月、移情閣は、文部科学省より国の重要文化財に指定された。

 2005(平成17)年10月、孫中山記念館は、「孫文記念館」と改称された。

 この記念館には、日本と孫文、神戸と孫文の関わりを中心に、呉錦堂の生涯や移情閣の変遷などについての詳細な展示が行われている。

移情閣の沿革

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 1950年代の移情閣

 移情閣は歴史の波に翻弄され、幾度となく姿を変えながらも、舞子浜の風雅を偲ぶ唯一の建物として、世紀を越えて明石海峡を見守り続けている。

 明石海峡大橋のある舞子浜は、古くから白砂青松の風光明媚な景勝地として知られ、明治期に入ると旅館や別荘が立ち並び、たいそう賑わったと伝えられる。その一角に神戸の中国人実業家・呉錦堂が別荘を設けたのが19世紀末、建物は「松海別荘」と名づけられ、事業の成功とともに拡張されていった。1913(大正2)年3月14日に国賓に準ずる待遇で日本を訪れた孫文を迎え、神戸の中国人をはじめ財界人が一同に会して歓迎会を催した。以来、松海別荘は孫文ゆかりの建物として神戸の人々の心に刻まれていった。

 孫文来訪から2年後の1915年、呉錦堂は自らの還暦と実業界からの引退を記念して、三層の楼閣を建て、故郷“中国”への思いを込めて「移情閣」と命名したといわれる。

 昭和期に入ると舞子浜は行楽地から交通の要所へと変貌していった。1928(昭和3)年に神明国道(現国道2号)の拡幅工事が行われ、海辺の旅館群は撤去された。そして、松海別荘は解体されたが移情閣は残され、附属棟が曳屋移築されて現在の形状に改築された。

 戦中の一時期、移情閣は事実上官に接収され、高官や軍の宿泊所に使用されたともいわれる。終戦後すぐ、呉家に返還されたのち、神戸中華青年会の研修所などに活用された。

 1960(昭和35)年には映画の舞台になるなど、平穏な時代が続いた。しかし1964,1965年の相次ぐ台風が舞子浜を直撃し、移情閣も大きな被害を受けた。このとき、附属棟は屋根・テラスが倒壊するなど壊滅的な状態となり、移情閣本体も壁紙・灯具などの大正期の貴重な内装材の多くが失われている。

 神戸華僑が孫文ゆかりの建物を残し、孫中山記念館として開館しようと資金を募り改修を行ったが、資金不足などから暫定的な補修にとどまった。

 日中国交正常化十周年ならびに兵庫県と広東省の友好提携関係樹立を記念して、1983(昭和58)年11月、移情閣は神戸華僑総会から兵庫県に寄贈され、県はこれを修復し恒久的に保存していくこととした。日中関係者の努力によって、孫中山記念館として1984年11月12日から一般に公開された。

 1991(平成3)年12月明石海峡大橋の建設に伴い、舞子駅周辺整備計画の一環として国道2号線の拡幅が決まり、移情閣の移転が決定された。移転場所は、明石海峡大橋のアンカレイジ東側海岸近くが選ばれた。

 2005(平成17)年10月1日、日本では「孫中山」よりも「孫文」の名がより知られていることを考慮して、館名を「孫文記念館」に改めた。

移情閣の復原

★ 解体工事

 1992(平成4)年12月、移転のための調査・工法の検討が学識経験者の協力を得て始まった。この調査によって、移情閣の建物の文化的価値が認められ、1993年12月に兵庫県の重要文化財に指定され、その歴史的価値を損なうことなく移築することが可能となった。1994年1月に孫中山記念館としての公開を一旦休止し仮設展示場で公開を続ける一方、同年3月に移情閣の解体工事が着手された。

 解体工事の終盤、1995(平成7)年1月17日、阪神淡路大震災に遭遇した。

 幸い附属棟はおおむね解体作業を終えていて無事であった。移情閣も造作財の搬送を終え、被害は一部のコンクリート製の外壁ブロックの損傷にとどまった。

 ただし周辺交通網が寸断、工事は一時中断を余儀なくされ、予定工期から4ヶ月遅れ、1995年7月に解体を完了した。


解体工事期間:1994年3月~1995年7月
解体工事費:2億6,500万円

★ 復原工事

 移情閣の復原工事は、明石海峡大橋の工事の進捗状況から、1998(平成10)年12月に着手と定められた。

 移情閣は、明治・大正期の舞子浜の別荘文化を今に伝える最後の建物であるばかりでなく、兵庫県における日本と中国の交流の歴史を語る上で欠くことのできない重要な文化遺産である。また全国的に近代の歴史的建造物に対する評価が高まるなか、復原工事は、単に県指定重要文化財の保存工事のレベルにとどまらず、現在の最高水準を目指すこととした。

 そのため、建築構造・建築意匠・建築史の6名の学識経験者からなる「移情閣復原工事指導委員会」が組織され、

①阪神・淡路大震災の教訓を活かした耐震対策・安全確保の検討
②文化財としてのauthenticity(真実性、本物であること)を追求し、建物本体の価値を損なうことなく後世に継承することを基本方針とし、全18回におよぶ委員会・ワーキングを通じて、耐震補強の検討、伝統工法、意匠などあらゆる角度からきめ細かい検証が行われた。さらに神戸華僑総会からの資料提供や英国総領事館などからの国際的協力を得て、より高い精度での復原が実現された。

復原工事期間:1998年12月~2000年3月
復原工事費:11億3,700万円

☆復原工事概要
敷地面積:1,581.00㎡
建築面積:368.53㎡
延べ床面積:738.46㎡
構造:移情閣 木骨コンクリートブロック造 3階建
附属棟 木骨煉瓦造 2階建
管理棟 RC 平屋建

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「孫文・神戸・華僑」地図

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最終更新日 ( 2023/06/23 金曜日 )

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